『生かすべきか、許すべきか、それが問題だ』
真理への求道者になって、はや三十年。いつも私を悩まして来たのは、この問いだった。
「『許す』とは、自らの不完全さを自覚した後に来る、罪を犯した人に対する愛である。」
それは、一般の人々にとっては、馴染みの薄い事かもしれないが、求道者の間では、当然のことであり、むしろ、許すことの出来ない人は、悟っていない者と見られた。そして、私も許すことの出来ない人に対しては、無意識のうちに、まだ目覚め切っていない、劣った者と見ていた。そのことは、自らに対してもなされ、心から許すことの出来なかった時には、自ら自身をも軽蔑した。
しかし、そもそも、私の『許す』という考えへの認識には、欠陥があった。それは、『許す』という考え自体の欠陥ではなく、ただ私の認識の欠陥だった。私は未熟だった。それでも、年月と経験が私を鍛え、教育してくれた。「十年あれば、能力の劣る者でも、一つの道でプロとなることが出来る」というように、こんな愚鈍な私でも、真理への求道者になって、三十年という月日が経ち、その中で様々な経験もして来たのだから、少しは、人様に語れることもあるかもしれない。今から語ることが、ほんの少しでも誰かの役に立てば、生きて来た意味もあるというものである。


生かすべきか、許すべきか: 二つの愛の狭間で
―永遠の求道者
生かすべきか、許すべきか: 二つの愛の狭間で