夏のある暑い日、高校の夏期講習を終えた生徒が、帰宅途中にある、とある大学のとある研究室にこっそり忍び込んだ。
「あばばば」
生徒は椅子に座り、研究室にあった一台の小さな扇風機の前で涼んでいた。その時、扉が開き、スーツ姿の先生らしき人が入って来た。
「何ですか?」
生徒はその声の方向へ頭だけ向けた。
「あっ~、ヒッ~ク~、ヒハヒぶり」
扇風機の風で声が震え、聞き取りづらかったが、その先生らしき人は慣れた口調で返した。
「久しぶりって、昨日も来たでしょ」
「ホウハっけ?」
「そうですよ」
「ハタシのハタマは夏のハツさでオーバーヒ~トヘス。ヒオクがハヒハせん」
その生徒は顔を下に向けた。研究室の先生らしき人は生徒の横にある机に向かいながら言った。
「それにその姿は何ですか。 髪はぼさぼさ、服も乱れて、女性としての身だしなみがありませんよ」
「暑いんだよ。ニック! エアコンつけてよ」と女子生徒がうつむいたまま答えた。今度は風にさえぎられずに声が届いた。
「心頭滅却すれば火もまた涼しですよ」
「ハヒホレ、古ヒホ~」と女子生徒は顔を上げて不条理を訴えた。扇風機の風が彼女の声をさえぎった。
「日本人の精神ですよ。武士道です」
話しづらかったのか、彼女は扇風機の首を横に向けながら、
「それは、昔の日本人精神だよ~。私は今の日本人。知の巨人って言われてた人も『エアコンは良いものです』って言ってたよ」と答えた。
「渡部昇一先生でしたっけ? そうですね。勉強の効率は確かに上がります」
「そうでしょ」
「でも、勉強しないんですよね」
「そんなことないよ」
女子生徒は腕を組んで頬を膨らませた。扇風機の風が彼女の髪を吹き上げ、まるで彼女の思いを演出しているようだ。
「そうですか。まあ、私は今からきちんと〝勉強〟するので、エアコンつけますけどね」
ニックはそう言いながら、ズボンのポケットからたくさんの鍵がついているチェーンを取り出し、そして、その中から一つ選んで、机の一番上の引き出しの鍵穴に差し込んで開け、中からエアコンのコントローラーを取り出し、エアコンをつけた。
『ピッ』
「何それ、なんかずるい」
「ずるくないですよ。働くものへの正当な報酬です」
「弱い立場の生徒はいつも暑さの中で勉強し、強い立場の先生たちはいつも涼しい中で生徒たちを評価する。不公平だ! 生徒たちよ、団結せよ。格差是正だ!」と言いながら、彼女は左手を腰に当て、右手を上げた。
「おやおや、マルクス気取りですか?」
「階級闘争です」
「生徒と先生では、立場が違いますよ」
「不公平は是正すべきなんです」
「それが正当ならそうあるべきかもしれません」
「そうです」
「でも、高校生では法律上でもまだ大人ではありませんから、大人である先生とは対等には扱えませんよ。生徒はまだ教育される必要がありますし、教育する先生の指導のもとにありますからね」
「ああ、早く大人になりたい・・・。そして、楽したい・・・」
ニックと呼ばれる先生らしき人は飽きれたような顔をして、
「大人になったら、それはそれで大変ですよ」と言った。
「そうかな? そうは見えないけど・・・」と不審がる彼女。
「じゃあ、ニックも大変なの? 大学教授って楽そうにみえるけど・・・」
「私も大変ですよ。子ども時代が懐かしいです」
「ニックの子ども時代か~。真面目でつまらなそう」
「そんなことはありませんよ。僕もいたずらが大好きな子どもでしたから。誰かさんと同じように」
「何、私のこと? 私は真面目よ。真面目にコツコツ毎日ニックの研究室に忍び込んでるわ」
「オーバーヒートして記憶は無かったんじゃなかったんですか?」
彼女は頭をかきながら笑って誤魔化した。
「子どもの時は何でも大人から制限されているように見え、不服に思うことが多いのですけど、実際はそれで守られていることの方が多いんですよ。大人になると、制限がなくなりそれではじめてそのありがたさもわかります」
「そうかな?」
「そういうものです」
「私には、大人にただ騙されているように思えるけど・・・。正直ものがバカを見ている感じがするけど・・・」と言い、彼女は腕を組んで目を瞑った。
「まあ、時間が教えてくれますよ」
ニックと呼ばれる研究室の先生らしき人はそう言った後、机に座って本を読み始めた。女子生徒も研究室のテーブルの上に置いていた彼女の学生鞄から本を取り出し、それを読み始めた。外からの『ミーン、ミーン』と鳴くセミの声とエアコンの『ヴィーン、ヴィーン』という機械音と本をめくる『パラッ、パラッ』という紙の音だけが部屋に響いていた。それは二人にとっては、いつもの光景のようで、どちらも緊張することなく気軽に過ごしていた。ニックは、余り動くことなく落ち着いて静かに本を読み、女子生徒は体の向きを頻繁に変えながら余り落ち着くことなく本を読んでいた。
「疲れた!」
「どうしたんですか? もう読むのに疲れましたか?」とニックが振り向きながら言った。
「いいえ、人生に疲れました」
「何ですか?」
「毎日、灰色の人生です。女子高生なのに、しかも夏なのに、花もなく、恋もなく、こうして寂れた大学の研究室で静かに本を読んでいるんです」と彼女はテーブルから顔を上げながら答えた。
「まあ、来年受験ですしね。高校時代はあっという間に過ぎていきますよ」
「夏休みも毎日朝から勉強勉強で、機械的で人間らしくない生活・・・」
彼女はまたテーブルにうつ伏し、つぶやいた。
「私、人間失格です」
ニックは、椅子から立ち上がると彼女のそばに歩いて行った。そして、彼女が持っていた本の背表紙を見て言った。
「太宰治ですか?」
「そうです。学校の課題図書から選んだんです。今の私の気持ちそのものです」
ニックは彼女から本を受け取り、パラパラとめくった。

ニックとの夏 (青春小説)
「あばばば」
生徒は椅子に座り、研究室にあった一台の小さな扇風機の前で涼んでいた。その時、扉が開き、スーツ姿の先生らしき人が入って来た。
「何ですか?」
生徒はその声の方向へ頭だけ向けた。
「あっ~、ヒッ~ク~、ヒハヒぶり」
扇風機の風で声が震え、聞き取りづらかったが、その先生らしき人は慣れた口調で返した。
「久しぶりって、昨日も来たでしょ」
「ホウハっけ?」
「そうですよ」
「ハタシのハタマは夏のハツさでオーバーヒ~トヘス。ヒオクがハヒハせん」
その生徒は顔を下に向けた。研究室の先生らしき人は生徒の横にある机に向かいながら言った。
「それにその姿は何ですか。 髪はぼさぼさ、服も乱れて、女性としての身だしなみがありませんよ」
「暑いんだよ。ニック! エアコンつけてよ」と女子生徒がうつむいたまま答えた。今度は風にさえぎられずに声が届いた。
「心頭滅却すれば火もまた涼しですよ」
「ハヒホレ、古ヒホ~」と女子生徒は顔を上げて不条理を訴えた。扇風機の風が彼女の声をさえぎった。
「日本人の精神ですよ。武士道です」
話しづらかったのか、彼女は扇風機の首を横に向けながら、
「それは、昔の日本人精神だよ~。私は今の日本人。知の巨人って言われてた人も『エアコンは良いものです』って言ってたよ」と答えた。
「渡部昇一先生でしたっけ? そうですね。勉強の効率は確かに上がります」
「そうでしょ」
「でも、勉強しないんですよね」
「そんなことないよ」
女子生徒は腕を組んで頬を膨らませた。扇風機の風が彼女の髪を吹き上げ、まるで彼女の思いを演出しているようだ。
「そうですか。まあ、私は今からきちんと〝勉強〟するので、エアコンつけますけどね」
ニックはそう言いながら、ズボンのポケットからたくさんの鍵がついているチェーンを取り出し、そして、その中から一つ選んで、机の一番上の引き出しの鍵穴に差し込んで開け、中からエアコンのコントローラーを取り出し、エアコンをつけた。
『ピッ』
「何それ、なんかずるい」
「ずるくないですよ。働くものへの正当な報酬です」
「弱い立場の生徒はいつも暑さの中で勉強し、強い立場の先生たちはいつも涼しい中で生徒たちを評価する。不公平だ! 生徒たちよ、団結せよ。格差是正だ!」と言いながら、彼女は左手を腰に当て、右手を上げた。
「おやおや、マルクス気取りですか?」
「階級闘争です」
「生徒と先生では、立場が違いますよ」
「不公平は是正すべきなんです」
「それが正当ならそうあるべきかもしれません」
「そうです」
「でも、高校生では法律上でもまだ大人ではありませんから、大人である先生とは対等には扱えませんよ。生徒はまだ教育される必要がありますし、教育する先生の指導のもとにありますからね」
「ああ、早く大人になりたい・・・。そして、楽したい・・・」
ニックと呼ばれる先生らしき人は飽きれたような顔をして、
「大人になったら、それはそれで大変ですよ」と言った。
「そうかな? そうは見えないけど・・・」と不審がる彼女。
「じゃあ、ニックも大変なの? 大学教授って楽そうにみえるけど・・・」
「私も大変ですよ。子ども時代が懐かしいです」
「ニックの子ども時代か~。真面目でつまらなそう」
「そんなことはありませんよ。僕もいたずらが大好きな子どもでしたから。誰かさんと同じように」
「何、私のこと? 私は真面目よ。真面目にコツコツ毎日ニックの研究室に忍び込んでるわ」
「オーバーヒートして記憶は無かったんじゃなかったんですか?」
彼女は頭をかきながら笑って誤魔化した。
「子どもの時は何でも大人から制限されているように見え、不服に思うことが多いのですけど、実際はそれで守られていることの方が多いんですよ。大人になると、制限がなくなりそれではじめてそのありがたさもわかります」
「そうかな?」
「そういうものです」
「私には、大人にただ騙されているように思えるけど・・・。正直ものがバカを見ている感じがするけど・・・」と言い、彼女は腕を組んで目を瞑った。
「まあ、時間が教えてくれますよ」
ニックと呼ばれる研究室の先生らしき人はそう言った後、机に座って本を読み始めた。女子生徒も研究室のテーブルの上に置いていた彼女の学生鞄から本を取り出し、それを読み始めた。外からの『ミーン、ミーン』と鳴くセミの声とエアコンの『ヴィーン、ヴィーン』という機械音と本をめくる『パラッ、パラッ』という紙の音だけが部屋に響いていた。それは二人にとっては、いつもの光景のようで、どちらも緊張することなく気軽に過ごしていた。ニックは、余り動くことなく落ち着いて静かに本を読み、女子生徒は体の向きを頻繁に変えながら余り落ち着くことなく本を読んでいた。
小一時間ほど経った時、女子生徒が突然、テーブルにうつ伏して叫んだ。
「疲れた!」
「どうしたんですか? もう読むのに疲れましたか?」とニックが振り向きながら言った。
「いいえ、人生に疲れました」
「何ですか?」
「毎日、灰色の人生です。女子高生なのに、しかも夏なのに、花もなく、恋もなく、こうして寂れた大学の研究室で静かに本を読んでいるんです」と彼女はテーブルから顔を上げながら答えた。
「まあ、来年受験ですしね。高校時代はあっという間に過ぎていきますよ」
「夏休みも毎日朝から勉強勉強で、機械的で人間らしくない生活・・・」
彼女はまたテーブルにうつ伏し、つぶやいた。
「私、人間失格です」
ニックは、椅子から立ち上がると彼女のそばに歩いて行った。そして、彼女が持っていた本の背表紙を見て言った。
「太宰治ですか?」
「そうです。学校の課題図書から選んだんです。今の私の気持ちそのものです」
ニックは彼女から本を受け取り、パラパラとめくった。